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元記事はここです。 Berliner Morgenpost 1997年8月17日付 Ein Saenger, der sich selbst auf den Arm nimmt |
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並はずれた高い声を持つアルトシンガーJochen Kowalskiは、世界中で人気のオペラ歌手である。しかし彼にとってはキャリアを踏み出した場所、ベルリンが一番居心地良い。 リポーター BARBARA JAENICHE
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![]() Pankowerドリームホームのテラスにジーンズ姿で立っていても、Jochen Kowalski はコッミシェオーパで Harry Kupfers がプロデュースする「ジュリアスシーザー」に出ているかのように、そしてオルフェウスや、あるいはヨハンシュトラウスの「こうもり」の当たり役 Prinz Orlowsky を演じているかのように引き立っている。私たちは彼が5月から住んでいるペントハウスの自宅で会ったが、Kowalski は「これは例外中の例外」と言う。なぜなら彼のプライベートライフは「犯しがたく神聖な」ものであるからだ。 小鳥のさえずりを聞きながら眺望の良いテラスに座っていると、彼が世界に名高いオペラ歌手であることが無関係に思えてくる。並はずれた高い声を持つ43才のアルトシンガーは、シンプルな「人間」である。赤いひなげしの絵の付いたシャツを着て、それにふさわしくターンテーブルには、Rosita Serranos の古いヒット曲 "Roter Mohn"(赤いひなげし)がのっている。彼は古いレコードと映画に大いに情熱を傾けている。彼は銀幕の強烈な個性を懐かしがり、最近は映画俳優もテレビ俳優も同じになってしまったと嘆く。 Jochen Kowalski は日本でも、ニューヨークの MET でも、またロンドンのコベントガーデンでも同じように人気が高いが、彼はベルリンのコミッシェオーパから離れようとしない。「私はベルリン市民が他の誰よりも好きなのです。彼らは私の声が100%良好な状態でなくても受け入れてくれます。」と彼は語る。 しかし、シンガーを最も準備良く迎えるオペラファンは日本のファンである。「あるシューベルトの歌の夕べに、テキストを正確に知っていたのには、本当に驚きました。」と Kowalski は言う。毎回日本から帰国するたびに、彼のスーツケースは(ぬいぐるみからネクタイ、彼を描いた油絵に至る)極東からの贈り物でいっぱいである。 彼が歌手になりたいと思ったのはいつ頃であろうか。「実際のところ子供の時から」と彼は回想する。肉屋の3人兄弟の末っ子に生まれた彼は(「それぞれ6才ずつ離れています」と彼は言う。)Brandenburg Mark1)の Wachow で18才になるまで育った。「私は実にすばらしい両親を持ちました。家庭環境がよかったことで自分の性格の基礎ができました」と彼は語る。父親が亡くなった後は、長男の Reinhard が家業を引き継いだ。Gerhard はベルリンに住み、ADN のジャーナリストをしている。 学校卒業後、早くも1972年に Kowalski はベルリンに行ってコミッシェオーパ2)で働き始めたが、最初の5年間は単なる小道具係であった。時間がある時は、彼は「いつもリハーサルに行っては、Theo Adam や Peter Schreier そして Hermann Prey のようなスターの演技を観察していました。」と言う。 有名な Hanns Eisler 音楽学校の入学試験の結果は、非常に落胆させるものだった。「私は才能がないとして2回拒否されたために、今でも音楽学校とは幾分緊張した関係にあります。」と、Kowalski は正直に認める。ようやく3回目にしてテナーの声域で入学できた。ごく普通の学校生活がそれに続いた。1981年に「ああ、そうだったのか!」と言う経験をするまでは......Marianne Fischer-Kupfer (オペラ演出家 Harry Kupfer の夫人)が、彼の男性アルトとしての才能に初めて気づいたのだった。 1984年に Koawlski は、国際的に有名になるきっかけとなったヘンデルの「ジュスティーノ」の主題役を歌い、壁の崩壊のはるか以前に東西両側でオペラのスターとなった。数多くのレコーディング、CD、そして彼のアートを描いたTV番組、グラックの「オルフェウスとユーリディーチェ」の完全録音、そしてヘンデルの「ジュスティーノ」と「ベルシャザール」のTV放映がそれに続いた。 Kowalski のこれからのスケジュールは、9月半ばに日本での4週間のツアーが始まり、12月23日にはコミッシェオーパの50周年記念。大晦日には Unter den Linden の Buhne der Staatsoper での「こうもり」が待っている。続いて1998年にはウィーンでの公演、そして再度、日本と台湾でのアジア公演。 今の職業でなかったらどのような仕事がしたいかという質問には、まるでピストルの弾丸のように即座に「俳優」という答えが返ってきた。「特に好きな俳優は Goetz Schubert、一度ぜひカメラの前に立ってみたい。」と彼は言う。高校時代は、彼の多くの友人がそうであったようにジェームス・ディーンがとりわけ好きだった。彼の仕事部屋の壁には、昔の UFA3) のスターやオペラ歌手の写真と並んで、ジェームス・ディーンの写真が美しく飾られている。 Jochen Koalski は職業人として同じものに固執することを好まないので、時には目新しいものに挑戦したいと言う。「深刻になりすぎないこと、特に自分自身のことでは。」彼はそういって笑うとその証拠のように、コミッシェオーパのほとんど等身大の看板を手に取った。 そこには彼が超モダンなジーンズと革ジャンで写っている。 「私は自分自身をからかうこともできます。」 |
翻訳者ノート |
1) margravate (ドイツの辺境伯 margrave の領地)を意味する。 2) これは、原文記事の間違いで正しくは Staatsoper の小道具係であった。 3) Universum Film Aktiengesellschaftの頭文字。ドイツの主要な制作会社、配給会社、および上映会社が合併してできた政府助成 複合企業。民営化企業に転換後、UFAは欧州唯一の最大級スタジオとなり、ワイマール共和国 (1919-33)時代、ドイツ映画の 「黄金時代」に関わる映画のほとんどを制作した。 © 1999 by Cleofide
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